2006年10月26日
本気で子育て その③
「一人で子育て」を始めて、まだ5年ほどですが、この五年間で本当に様々な気付きや出来事がありました。
ただ言えることは、
「自分の心の状態」が、子どもの言動や気持ちに影響する、ということ。
実家にいた時の私はまだ、しっかり一人で立っていませんでした。
何か子どもに問題が起きると、切られるとわかっている電話を夫に掛けていました。
母からは、「可愛そうな子」と、甘やかされていましたが、それがイヤでずっと反抗していました。
そんな頼りない母を、子どもたちは厳しい目でずっと見ていました。
「ママは ほんとに 子どもみたい。」
母としての威厳も、親としての立場も、全くなくなってしまいました。
子どもたちの反抗が、少しだけ落ち着いたのは、やはり私がちゃんと仕事をし、精神的に自立してからです。
子どもの父親とのことも、きっぱり諦め、自分の母ともしっかり距離を取り、どんなことがあっても
「自分ひとりで頑張ってみよう」という決意を持った時、子どもたちへ初めて心が通じたのでしょうね。
親として、「毅然とした態度」を取ることが、子どもにとっての”安心”に繋がるということ、、子どもたちから教えてもらいました。
子どもができてから、おんぶに抱っこだった子育てが、私一人に”バトンタッチ”されてから、「子どもの在り方」はようやく変化してきたのです。
ただ言えることは、
「自分の心の状態」が、子どもの言動や気持ちに影響する、ということ。
実家にいた時の私はまだ、しっかり一人で立っていませんでした。
何か子どもに問題が起きると、切られるとわかっている電話を夫に掛けていました。
母からは、「可愛そうな子」と、甘やかされていましたが、それがイヤでずっと反抗していました。
そんな頼りない母を、子どもたちは厳しい目でずっと見ていました。
「ママは ほんとに 子どもみたい。」
母としての威厳も、親としての立場も、全くなくなってしまいました。
子どもたちの反抗が、少しだけ落ち着いたのは、やはり私がちゃんと仕事をし、精神的に自立してからです。
子どもの父親とのことも、きっぱり諦め、自分の母ともしっかり距離を取り、どんなことがあっても
「自分ひとりで頑張ってみよう」という決意を持った時、子どもたちへ初めて心が通じたのでしょうね。
親として、「毅然とした態度」を取ることが、子どもにとっての”安心”に繋がるということ、、子どもたちから教えてもらいました。
子どもができてから、おんぶに抱っこだった子育てが、私一人に”バトンタッチ”されてから、「子どもの在り方」はようやく変化してきたのです。
2006年10月25日
本気で子育て その②
引越しして、間もなく、有り難いことにご縁でフルタイムの仕事が見つかりました。
嘱託でしたが、毎月定期収入が入るのは助かりました。
子どもたちは、初めての「親子三人」での暮らしに、最初は戸惑いを感じていたようです。
精神的に、不安定な日々が続きました。
下の子どもは、急に全くの鍵っ子になりました。
朝、自分でカギを閉めて学校へ行き、自分でカギを開けて電気のついていない家に入るのです。
中学生活学年半ばで転校したので、クラブも入れず、馴染むのに時間が掛かりました。
そして二学期、学校から呼び出しの電話が度々掛かってくるようになったのです。
「息子さん、学校に来てませんけど。体調悪いのですか?」
「・・・・そうですか。。。何も言ってませんでしたけど。休んでいるのですね。。。」
その日、家に帰ると息子は部屋で寝ていました。
ワケを聞いても、納得できる答えは返ってきませんでした、。
そんな日が何日か続いて、先生も心配して来てくださいました。
「なんで 学校に来れへんのやろなぁ?」
「・・・・・」
「体育祭の練習がイヤなんか?」
「・・・・・はい。」
二学期になり、体育祭の練習の最中に、どうしてもイヤなことがあったようです。
よくよく話を聞いてみると、
「頑張れない」ことが一番”辛い”と。。。
子どもって、「できる・できない」ということよりも、「一生懸命するかしないか」ということで評価が違ってきますね。
下手でも「頑張る子」は、良い子で、とにかく「頑張らない子」は、悪い子だという暗黙の図式ができているように思います。
その時の息子は「頑張れない子」でした。
体育祭の当日。
息子は参加しました。
誰に強制されたでもなく、「自分で」考えて結論を出したのです。
その後もまた、欠席する日が続きましたが、体育祭の次にあった「中間テスト」がまた、立ち直りのキッカケになりました。
そんな感じで、一ヶ月に20日以上は休んだのですが、「自分で」トンネルを抜けたのです。
「待つ」子育ては、根気が必要です。
怒っても、叱っても、泣き叫んでも、頼んでも、結局は子ども自身の「気付き」がなければ、それは親の空回りになってしまうのです。
嘱託でしたが、毎月定期収入が入るのは助かりました。
子どもたちは、初めての「親子三人」での暮らしに、最初は戸惑いを感じていたようです。
精神的に、不安定な日々が続きました。
下の子どもは、急に全くの鍵っ子になりました。
朝、自分でカギを閉めて学校へ行き、自分でカギを開けて電気のついていない家に入るのです。
中学生活学年半ばで転校したので、クラブも入れず、馴染むのに時間が掛かりました。
そして二学期、学校から呼び出しの電話が度々掛かってくるようになったのです。
「息子さん、学校に来てませんけど。体調悪いのですか?」
「・・・・そうですか。。。何も言ってませんでしたけど。休んでいるのですね。。。」
その日、家に帰ると息子は部屋で寝ていました。
ワケを聞いても、納得できる答えは返ってきませんでした、。
そんな日が何日か続いて、先生も心配して来てくださいました。
「なんで 学校に来れへんのやろなぁ?」
「・・・・・」
「体育祭の練習がイヤなんか?」
「・・・・・はい。」
二学期になり、体育祭の練習の最中に、どうしてもイヤなことがあったようです。
よくよく話を聞いてみると、
「頑張れない」ことが一番”辛い”と。。。
子どもって、「できる・できない」ということよりも、「一生懸命するかしないか」ということで評価が違ってきますね。
下手でも「頑張る子」は、良い子で、とにかく「頑張らない子」は、悪い子だという暗黙の図式ができているように思います。
その時の息子は「頑張れない子」でした。
体育祭の当日。
息子は参加しました。
誰に強制されたでもなく、「自分で」考えて結論を出したのです。
その後もまた、欠席する日が続きましたが、体育祭の次にあった「中間テスト」がまた、立ち直りのキッカケになりました。
そんな感じで、一ヶ月に20日以上は休んだのですが、「自分で」トンネルを抜けたのです。
「待つ」子育ては、根気が必要です。
怒っても、叱っても、泣き叫んでも、頼んでも、結局は子ども自身の「気付き」がなければ、それは親の空回りになってしまうのです。
2006年10月23日
自分との葛藤の日々 その②
「一人で子育て」
子どもができてから、全く考えていなかったことでした。
もう、二人ともある程度の年齢になっていたので、身の回りの世話をするということはありませんでしたが、精神的にとても微妙な年齢だったので、その方が心配でした。
”「自己信頼」を全く無くして、自分を責め続け、泣き続ける母”と
”家族への「無視」と母への言葉の暴力を急に出し始めた父”
こんな状態で、半年以上も逃げ場のない状態にいた子どもたちの心は、目に見えて段々と荒んで(すさんで)いきました。
その頃の私は、自立していない大人の典型でした。
父親から、家庭環境から逃げるように結婚した20代前半。
彼は、理想の男性というより、私の理想とする父親像といった方が正しかったのかもしれません。
一度も父親に甘えたり心から楽しいと思って遊んでもらったことのない私にとって、子どもと遊ぶ彼の姿は、何よりの安らぎだったのだと思います。
そんなインナーチャイルドを抱えた私は、いつのまにか彼の「子ども」になっていました。
彼は、そのことにいつからか、危機感を覚えていたのでしょう。
話し合いで解決する時間も余裕も持てないまま、「爆発して別れる」という最悪のシナリオによって、幕を閉じることになったのです。
子どもたちは、そんな両親の心の葛藤を理解できるでもなく、誰にも相談できず、自分の中で溜め込んでいきました。
親に気を遣って、表面的には普通を装っていましたが、そのけな気な姿に胸が痛む日々でした。
多くの問題を抱えたまま、子どもたちと私は、帰国となりました。
お金も仕事も帰る家もなかった私たちは、実家にお世話になりました。
そして、その日から、子どもたちとの身体をはったバトルの日々が始まったのです。
子どもができてから、全く考えていなかったことでした。
もう、二人ともある程度の年齢になっていたので、身の回りの世話をするということはありませんでしたが、精神的にとても微妙な年齢だったので、その方が心配でした。
”「自己信頼」を全く無くして、自分を責め続け、泣き続ける母”と
”家族への「無視」と母への言葉の暴力を急に出し始めた父”
こんな状態で、半年以上も逃げ場のない状態にいた子どもたちの心は、目に見えて段々と荒んで(すさんで)いきました。
その頃の私は、自立していない大人の典型でした。
父親から、家庭環境から逃げるように結婚した20代前半。
彼は、理想の男性というより、私の理想とする父親像といった方が正しかったのかもしれません。
一度も父親に甘えたり心から楽しいと思って遊んでもらったことのない私にとって、子どもと遊ぶ彼の姿は、何よりの安らぎだったのだと思います。
そんなインナーチャイルドを抱えた私は、いつのまにか彼の「子ども」になっていました。
彼は、そのことにいつからか、危機感を覚えていたのでしょう。
話し合いで解決する時間も余裕も持てないまま、「爆発して別れる」という最悪のシナリオによって、幕を閉じることになったのです。
子どもたちは、そんな両親の心の葛藤を理解できるでもなく、誰にも相談できず、自分の中で溜め込んでいきました。
親に気を遣って、表面的には普通を装っていましたが、そのけな気な姿に胸が痛む日々でした。
多くの問題を抱えたまま、子どもたちと私は、帰国となりました。
お金も仕事も帰る家もなかった私たちは、実家にお世話になりました。
そして、その日から、子どもたちとの身体をはったバトルの日々が始まったのです。
2006年10月22日
自分との葛藤の日々 その①
「あの日」のことを鮮明に記憶しています。
帰国が半年後に迫ったアメリカ生活最後の夏休み。
私は、子どもたち二人を連れて、日本に一時帰国しました。
一週間後。。。
空港まで迎えに来てくれていた彼の様子が、いつもと明らかに違うことを感じました。
その日の夜。
子どもたちが寝ていることを確認し、彼の口から思いがけない一言が。
「別れて欲しい」
一瞬、何が起きているのか理解できませんでした。
遠い所から声が聞こえてきて、言っている意味がわかりませんでした。
・・・「意識は現実化する」
彼から発した言葉は、まさしく私の”潜在意識”の言葉だったのです。
「いつかは 彼と別れよう」
そんなことを漠然と考えていた私だったにも関わらず、彼の口から、しかも、異国の地で”先に”言われたことに平常心を失い、ただただ泣いている自分がいました。
「子どもたちは?」「生活は?」
真っ白になった頭に、真っ先に浮かんだのは「子どもたち」のことでした。
「一日でも早く子どもたちを連れて帰ってくれ」
とはいうものの、実際問題、現地の公立学校も、日本の補習校も、学年の途中で、特に下の子は3月に日本の補習校の卒業を迎えていたので、どんなことがあっても、任期の終わる来年3月までは滞在しないといけません。
8月下旬から帰国した3月下旬までの7ヶ月間は、
生涯の中で、忘れられない悪夢の日々であったと同時に、「生まれ変わった自分」に出会うために必要な”痛みを伴った宝物”の時期でした。
帰国が半年後に迫ったアメリカ生活最後の夏休み。
私は、子どもたち二人を連れて、日本に一時帰国しました。
一週間後。。。
空港まで迎えに来てくれていた彼の様子が、いつもと明らかに違うことを感じました。
その日の夜。
子どもたちが寝ていることを確認し、彼の口から思いがけない一言が。
「別れて欲しい」
一瞬、何が起きているのか理解できませんでした。
遠い所から声が聞こえてきて、言っている意味がわかりませんでした。
・・・「意識は現実化する」
彼から発した言葉は、まさしく私の”潜在意識”の言葉だったのです。
「いつかは 彼と別れよう」
そんなことを漠然と考えていた私だったにも関わらず、彼の口から、しかも、異国の地で”先に”言われたことに平常心を失い、ただただ泣いている自分がいました。
「子どもたちは?」「生活は?」
真っ白になった頭に、真っ先に浮かんだのは「子どもたち」のことでした。
「一日でも早く子どもたちを連れて帰ってくれ」
とはいうものの、実際問題、現地の公立学校も、日本の補習校も、学年の途中で、特に下の子は3月に日本の補習校の卒業を迎えていたので、どんなことがあっても、任期の終わる来年3月までは滞在しないといけません。
8月下旬から帰国した3月下旬までの7ヶ月間は、
生涯の中で、忘れられない悪夢の日々であったと同時に、「生まれ変わった自分」に出会うために必要な”痛みを伴った宝物”の時期でした。
2006年10月21日
そしてアメリカへ
心の整理がつかない間に、アメリカ行きの日がきました。
最初の年は、ホームシックと諦めきれない「あの」大学への想いが交錯し、中々現地の生活に溶け込めない日々が続きました。
元夫は、100%良い父親であり家庭人だったので、私はそんな彼にいつもおんぶに抱っこで、頼ってばかりでした。
心のどこかにいつも「アメリカに来るより、日本で勉強したかった。」という過去を引きずる思いが私の中にあるのを、彼は敏感に感じていたのでしょう。
彼は決して怒りませんでした。
何でも言うことを聞いてくれる彼に対して、段々我儘な女になっていく自分を責めつつも、モヤモヤとした気持ちは払拭できませんでした。
滞米二年目。
やっと「心の拠り所」を見つけました。
それから私は、無意識の内に「現実」から逃げ、そして「夫と向き合う」ことから逃げることによって、生活のバランスを取っていたのだと思います。
そしてその頃は、表面的にはとても「幸せな家庭」だったと思います。
でも「いまを生きて」いなかった私は、いつも掴み所のない虚しさを感じていました。
「子育て」も、アメリカにいることを良いことに、都合の悪いことは全て夫に押し付けていたような気がします。
子どもたちからも、私からも、一方的に「頼られる」ばっかりだった夫は、駐在生活最後の帰国間際についに”爆発”しました。
それからあり地獄のごとく、私の「自己否定」の悪循環の日々が始まったのです。
最初の年は、ホームシックと諦めきれない「あの」大学への想いが交錯し、中々現地の生活に溶け込めない日々が続きました。
元夫は、100%良い父親であり家庭人だったので、私はそんな彼にいつもおんぶに抱っこで、頼ってばかりでした。
心のどこかにいつも「アメリカに来るより、日本で勉強したかった。」という過去を引きずる思いが私の中にあるのを、彼は敏感に感じていたのでしょう。
彼は決して怒りませんでした。
何でも言うことを聞いてくれる彼に対して、段々我儘な女になっていく自分を責めつつも、モヤモヤとした気持ちは払拭できませんでした。
滞米二年目。
やっと「心の拠り所」を見つけました。
それから私は、無意識の内に「現実」から逃げ、そして「夫と向き合う」ことから逃げることによって、生活のバランスを取っていたのだと思います。
そしてその頃は、表面的にはとても「幸せな家庭」だったと思います。
でも「いまを生きて」いなかった私は、いつも掴み所のない虚しさを感じていました。
「子育て」も、アメリカにいることを良いことに、都合の悪いことは全て夫に押し付けていたような気がします。
子どもたちからも、私からも、一方的に「頼られる」ばっかりだった夫は、駐在生活最後の帰国間際についに”爆発”しました。
それからあり地獄のごとく、私の「自己否定」の悪循環の日々が始まったのです。
2006年10月20日
人生の転換期
30代半ば。
元夫の転勤で、カルフォルニアに家族で行くことになりました。
アメリカで仕事をすることは、彼にとって大きな夢の実現でした。
皮肉なことに同じ年の同じ月、私は、18歳の時に落ちた第一希望の大学の「3回生編入試験」に合格しました。
20歳の子たちに混じって受けた試験。10倍以上の倍率でした。
元夫も、家族もみんな言うことは同じでした。
「アメリカ生活に比べたら、大学なんて・・・」
ただ悲しかった。。。
彼にとってアメリカで仕事することが夢ならば、あの大学のあの学部で勉強することは、私にとっても大きな夢でした。
家族帯同が転勤の条件だったので、話し合いの余地はありませんでした。
当時小学生だった子どもたちは、アメリカ行きを喜んでいました。
「同じ年の同じ月」に、お互いの夢が実現したこと・・・全ての始まりだったのかもしれません。
元夫の転勤で、カルフォルニアに家族で行くことになりました。
アメリカで仕事をすることは、彼にとって大きな夢の実現でした。
皮肉なことに同じ年の同じ月、私は、18歳の時に落ちた第一希望の大学の「3回生編入試験」に合格しました。
20歳の子たちに混じって受けた試験。10倍以上の倍率でした。
元夫も、家族もみんな言うことは同じでした。
「アメリカ生活に比べたら、大学なんて・・・」
ただ悲しかった。。。
彼にとってアメリカで仕事することが夢ならば、あの大学のあの学部で勉強することは、私にとっても大きな夢でした。
家族帯同が転勤の条件だったので、話し合いの余地はありませんでした。
当時小学生だった子どもたちは、アメリカ行きを喜んでいました。
「同じ年の同じ月」に、お互いの夢が実現したこと・・・全ての始まりだったのかもしれません。