2006年10月21日
そしてアメリカへ
心の整理がつかない間に、アメリカ行きの日がきました。
最初の年は、ホームシックと諦めきれない「あの」大学への想いが交錯し、中々現地の生活に溶け込めない日々が続きました。
元夫は、100%良い父親であり家庭人だったので、私はそんな彼にいつもおんぶに抱っこで、頼ってばかりでした。
心のどこかにいつも「アメリカに来るより、日本で勉強したかった。」という過去を引きずる思いが私の中にあるのを、彼は敏感に感じていたのでしょう。
彼は決して怒りませんでした。
何でも言うことを聞いてくれる彼に対して、段々我儘な女になっていく自分を責めつつも、モヤモヤとした気持ちは払拭できませんでした。
滞米二年目。
やっと「心の拠り所」を見つけました。
それから私は、無意識の内に「現実」から逃げ、そして「夫と向き合う」ことから逃げることによって、生活のバランスを取っていたのだと思います。
そしてその頃は、表面的にはとても「幸せな家庭」だったと思います。
でも「いまを生きて」いなかった私は、いつも掴み所のない虚しさを感じていました。
「子育て」も、アメリカにいることを良いことに、都合の悪いことは全て夫に押し付けていたような気がします。
子どもたちからも、私からも、一方的に「頼られる」ばっかりだった夫は、駐在生活最後の帰国間際についに”爆発”しました。
それからあり地獄のごとく、私の「自己否定」の悪循環の日々が始まったのです。
最初の年は、ホームシックと諦めきれない「あの」大学への想いが交錯し、中々現地の生活に溶け込めない日々が続きました。
元夫は、100%良い父親であり家庭人だったので、私はそんな彼にいつもおんぶに抱っこで、頼ってばかりでした。
心のどこかにいつも「アメリカに来るより、日本で勉強したかった。」という過去を引きずる思いが私の中にあるのを、彼は敏感に感じていたのでしょう。
彼は決して怒りませんでした。
何でも言うことを聞いてくれる彼に対して、段々我儘な女になっていく自分を責めつつも、モヤモヤとした気持ちは払拭できませんでした。
滞米二年目。
やっと「心の拠り所」を見つけました。
それから私は、無意識の内に「現実」から逃げ、そして「夫と向き合う」ことから逃げることによって、生活のバランスを取っていたのだと思います。
そしてその頃は、表面的にはとても「幸せな家庭」だったと思います。
でも「いまを生きて」いなかった私は、いつも掴み所のない虚しさを感じていました。
「子育て」も、アメリカにいることを良いことに、都合の悪いことは全て夫に押し付けていたような気がします。
子どもたちからも、私からも、一方的に「頼られる」ばっかりだった夫は、駐在生活最後の帰国間際についに”爆発”しました。
それからあり地獄のごとく、私の「自己否定」の悪循環の日々が始まったのです。
Posted by 山羊 at 17:35│Comments(0)
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