2006年10月31日
イノチの大切さ
<命>
命はとても大切だ
人間が生きるための電池みたいだ
でも電池はいつかは切れる
命もいつかはなくなる
電池はすぐにとりかえられるけれど
命はそう簡単にはとりかえられない
何年も何年も
月日がたってやっと
神様から与えられるものだ
命がないと人間は生きられない
でも「命なんていらない」と言って
命を無駄にする人もいる
まだたくさん命が使えるのに
そんな人を見ると悲しくなる
命は休むことなく働いているのに
だから、私は命が疲れたと言うまで
せいいっぱい生きよう
(10月29日付けの産経新聞に掲載されていました)
これは、神経細胞胞腫という難病にかかっていた11歳の女の子が書いた詩です。
彼女は、この詩を書いた半年後に亡くなったそうです。
この詩を通じて少女が伝えたかった”想い”。。。
生きている私たち一人一人が、しっかり受け止めて日々の生活に生かさなければいけないと、最近のニュースを通じて思います。
社会の枠にはまらなくとも、他人から何と言われうようと、与えられた”イノチ”を全うする「生きるチカラ」を、子どもに伝えること。。。何があっても、親は子どもを見捨てないこと。。。
それが、この世にイノチを与えた親の使命だと、改めて感じます。
命はとても大切だ
人間が生きるための電池みたいだ
でも電池はいつかは切れる
命もいつかはなくなる
電池はすぐにとりかえられるけれど
命はそう簡単にはとりかえられない
何年も何年も
月日がたってやっと
神様から与えられるものだ
命がないと人間は生きられない
でも「命なんていらない」と言って
命を無駄にする人もいる
まだたくさん命が使えるのに
そんな人を見ると悲しくなる
命は休むことなく働いているのに
だから、私は命が疲れたと言うまで
せいいっぱい生きよう
(10月29日付けの産経新聞に掲載されていました)
これは、神経細胞胞腫という難病にかかっていた11歳の女の子が書いた詩です。
彼女は、この詩を書いた半年後に亡くなったそうです。
この詩を通じて少女が伝えたかった”想い”。。。
生きている私たち一人一人が、しっかり受け止めて日々の生活に生かさなければいけないと、最近のニュースを通じて思います。
社会の枠にはまらなくとも、他人から何と言われうようと、与えられた”イノチ”を全うする「生きるチカラ」を、子どもに伝えること。。。何があっても、親は子どもを見捨てないこと。。。
それが、この世にイノチを与えた親の使命だと、改めて感じます。
2006年10月30日
傷ついた一言
子どもの頃に他人から言われて「傷ついた一言」はありますか?
誰でも大なり小なりあるのではないでしょうか。
「ちょっとした一言が招く”心のいじめ”confidenceランキング&ニュース」に掲載されていたランキングから紹介します。
最も多かったのは容姿に関する”からかい”です。
「でぶ」「たらこ唇」「ちび」「ブス」「あごがしゃくれてる」「歯が出てる」など、本人にはどうしようもないことを指摘されると、傷つきます。
本人がコンプレックスに思っていることが多いので、なおのことですね。
「見た目にわかることだから、気にすることない。」というのは、当事者でない者の勝手な思い込みで、その人の主観で見た目をストレートに言うのはタブーだと思います。
私が最も気になった一言は「うざい」です。
この言葉は、相手の存在そのものを否定する、立派な言葉の暴力です。
「死ね」という言葉は、言語道断ですね。
同様に、「きもい」「きしょい」「ムカつく」など・・・人権を無視した言葉を人に向かって言う権利は誰にもありません。
私は親がまず、小さい時から子どもの「言葉使い」をちゃんと正すことが必要だと思います。
「どういう言葉を使ってはいけないか」
「どういう言葉が人を傷つけるか」
事在るごとに、子どもと話し合うことが大切だと思うのです。
でも、肝心の親がその言葉を日常的に使っていたり、親も言葉で子どもを傷つけている場合があるので、問題はより複雑です。
次に親から言われて傷ついた言葉として、
「お姉ちゃんは勉強ができるのに、あなたは・・・」
「お父さんに似て ムカつく」
「お母さんと妹は美人だね」
極めつけは、
「あんたなんて 産まなければ良かった」」「誰の子かわからん」
言葉の暴力は、目に見えないだけに深く・強く・そしていつまでも「心の傷」として残るのだと思います。
「言葉」はチカラ・・・
暴力としてのチカラに変えるのではなく、その一言が「生きるチカラ」になるような言葉を、子どもに多く伝えたいと、心から思います。
・・・・児童養護施設で出会った子どもたちを思い出し、胸が痛みました。
誰でも大なり小なりあるのではないでしょうか。
「ちょっとした一言が招く”心のいじめ”confidenceランキング&ニュース」に掲載されていたランキングから紹介します。
最も多かったのは容姿に関する”からかい”です。
「でぶ」「たらこ唇」「ちび」「ブス」「あごがしゃくれてる」「歯が出てる」など、本人にはどうしようもないことを指摘されると、傷つきます。
本人がコンプレックスに思っていることが多いので、なおのことですね。
「見た目にわかることだから、気にすることない。」というのは、当事者でない者の勝手な思い込みで、その人の主観で見た目をストレートに言うのはタブーだと思います。
私が最も気になった一言は「うざい」です。
この言葉は、相手の存在そのものを否定する、立派な言葉の暴力です。
「死ね」という言葉は、言語道断ですね。
同様に、「きもい」「きしょい」「ムカつく」など・・・人権を無視した言葉を人に向かって言う権利は誰にもありません。
私は親がまず、小さい時から子どもの「言葉使い」をちゃんと正すことが必要だと思います。
「どういう言葉を使ってはいけないか」
「どういう言葉が人を傷つけるか」
事在るごとに、子どもと話し合うことが大切だと思うのです。
でも、肝心の親がその言葉を日常的に使っていたり、親も言葉で子どもを傷つけている場合があるので、問題はより複雑です。
次に親から言われて傷ついた言葉として、
「お姉ちゃんは勉強ができるのに、あなたは・・・」
「お父さんに似て ムカつく」
「お母さんと妹は美人だね」
極めつけは、
「あんたなんて 産まなければ良かった」」「誰の子かわからん」
言葉の暴力は、目に見えないだけに深く・強く・そしていつまでも「心の傷」として残るのだと思います。
「言葉」はチカラ・・・
暴力としてのチカラに変えるのではなく、その一言が「生きるチカラ」になるような言葉を、子どもに多く伝えたいと、心から思います。
・・・・児童養護施設で出会った子どもたちを思い出し、胸が痛みました。
2006年10月29日
子どもを叱る その②
昨日の続きです。
②できる限り、感情を交えないこと
良く言われることですが、”怒る”のではなく”叱る”ことを忘れない。
これはある意味、とても難しいですね。
怒るときは、どうしても感情的になってしまいます。
子どもも、感情に任せて怒っているのか、本当に自分のことを心配して叱っているのか、本能的に察知するようで、親が感情的になっている時は、結構効き目がないことが多いように思います。
③子どもの目の高さまで背をかがめる
ちゃんと目線を高さに合わせ、目を見て言います。
とても大切な視点ですね、
”目を見て話す”というのに、大人も子どもも関係ないですね。
上からモノを言われると、とても威圧感があると思います。
④「いけないこと」をした理由を聞く
なぜそんな行動をしたのか、聞き出せる状態であれば、その言い分を聞いてあげましょう。
その時「なんで そんなことしたん?!」と、怒ったように聞かないようにすることは大事ですね。
感情的になっている時は、どうしても「なんでなん?」と、”問い詰めて”しまいがちですが、親も一呼吸置くようにしたいですね。
⑤叱られた理由をわからせる
どうして叱れているのか、本人に分かるようにはっきりと言います。
子どもにも、納得できる言い方・話し方が大切ですね。
そのためには、感情的にならず、筋道立てて、分かりやすいように話すことが必要になってきます。
親も”訓練”が必要かも?
⑥叱った後のフォローをする
叱り終わったら気持ちをきりかえて、「お母さん(お父さん)は、あなたが大好きよ」と言って、抱っこしたり背中をなでたりします。
このフォローが一番大切なような気がします。
子どもは、叱られると「嫌われているんじゃないか」と、不安になりますが、後でちゃんと
「叱ること」と「あなたを嫌いなこと」は、一緒ではないことを、スキンシップを通じて子どもに伝えると、
子どもはとても安心しますね。
虐待されている子どもは、常にこの「嫌われている」という不安に怯えています。
だから、必要以上に親の機嫌を取ったり、甘えたりします。
⑦叱らなければいけない時は、必ず同じように叱る
同じように悪い事をしたのに叱ったり叱らなかったりすると、良いことなのか悪いことなのか、子どもの中で混乱が起こってしまいます。
これも親が意識して気を付けないといけないことですね。
”一貫性”を持たせることは、母親と父親、両方ともに必要です。
母親と父親の意見や方針が違うと、子どもは指標」を失ってしまい、良いことなのか悪いことなのか判断がつかなくなります。
これだけ見ても、子育てって「親育て」なんだとつくづく思いますね。
私も基本的なことはちゃんと子どもに伝えたつもりですが、成長するにつれて、いろいろややこしい問題に遭遇したとき、「果たしてこれで良かったのか」と、自問自答することも多々ありました。
一生育自ですね。
②できる限り、感情を交えないこと
良く言われることですが、”怒る”のではなく”叱る”ことを忘れない。
これはある意味、とても難しいですね。
怒るときは、どうしても感情的になってしまいます。
子どもも、感情に任せて怒っているのか、本当に自分のことを心配して叱っているのか、本能的に察知するようで、親が感情的になっている時は、結構効き目がないことが多いように思います。
③子どもの目の高さまで背をかがめる
ちゃんと目線を高さに合わせ、目を見て言います。
とても大切な視点ですね、
”目を見て話す”というのに、大人も子どもも関係ないですね。
上からモノを言われると、とても威圧感があると思います。
④「いけないこと」をした理由を聞く
なぜそんな行動をしたのか、聞き出せる状態であれば、その言い分を聞いてあげましょう。
その時「なんで そんなことしたん?!」と、怒ったように聞かないようにすることは大事ですね。
感情的になっている時は、どうしても「なんでなん?」と、”問い詰めて”しまいがちですが、親も一呼吸置くようにしたいですね。
⑤叱られた理由をわからせる
どうして叱れているのか、本人に分かるようにはっきりと言います。
子どもにも、納得できる言い方・話し方が大切ですね。
そのためには、感情的にならず、筋道立てて、分かりやすいように話すことが必要になってきます。
親も”訓練”が必要かも?
⑥叱った後のフォローをする
叱り終わったら気持ちをきりかえて、「お母さん(お父さん)は、あなたが大好きよ」と言って、抱っこしたり背中をなでたりします。
このフォローが一番大切なような気がします。
子どもは、叱られると「嫌われているんじゃないか」と、不安になりますが、後でちゃんと
「叱ること」と「あなたを嫌いなこと」は、一緒ではないことを、スキンシップを通じて子どもに伝えると、
子どもはとても安心しますね。
虐待されている子どもは、常にこの「嫌われている」という不安に怯えています。
だから、必要以上に親の機嫌を取ったり、甘えたりします。
⑦叱らなければいけない時は、必ず同じように叱る
同じように悪い事をしたのに叱ったり叱らなかったりすると、良いことなのか悪いことなのか、子どもの中で混乱が起こってしまいます。
これも親が意識して気を付けないといけないことですね。
”一貫性”を持たせることは、母親と父親、両方ともに必要です。
母親と父親の意見や方針が違うと、子どもは指標」を失ってしまい、良いことなのか悪いことなのか判断がつかなくなります。
これだけ見ても、子育てって「親育て」なんだとつくづく思いますね。
私も基本的なことはちゃんと子どもに伝えたつもりですが、成長するにつれて、いろいろややこしい問題に遭遇したとき、「果たしてこれで良かったのか」と、自問自答することも多々ありました。
一生育自ですね。
2006年10月28日
子どもを叱る その①
子どもの叱り方って、結構難しいと感じたことはありませんか?
良く混乱してしまうことは、
「したこと(悪いこと)を叱ること」と「子どもの人格を否定」してしまうことだと思います。
例えば、ひじをつくなど、食事のマナーを注意した時に、それだけを叱れば(注意すれば)いいのに
それが何故か「ほんとに行儀が悪い。誰に似たんだろうね。。。」などと言うのは、本題がずれています。
子どものした悪いことを認識させることはもちろん大切ですが、それが発展して、子どもの人格や存在を否定しまうと、子どもの心は傷つきます。
私も経験ありますが、というか、子どもが小さい時は、その反省の繰り返しでした。
子どものしたことだけを、”短くその場で”叱ればいいものを、ふっと思い出した過去のことを持ち出してきたり、子どもの性格を否定するようなことを言ってしまったり。。。
子どもの悲しむ顔を見て初めて反省して。。。
「叱り方」は、本当に難しいと思いました。
<効果的な叱り方 七か条>から 順番にご紹介したいと思います。
①その場で叱ること
時間を置くと、子どもは何を叱られているのか分かりません。
「そういえば、朝こんなことがあったけど、それはね・・・」と、夜に叱っても、子どもも何のことか忘れてしまっているでしょう。
覚えていたとしても、右から左で、叱る効果はないと思います。
私もたまに、思い出して子どもに注意することがありますが、もう高校生になった子どもからは
「何いうとん?それ、いつのこと?」と一言かわされて、終わりです(汗)
何でも「その場」が効果的です。
ということで、また次回に続きます。
良く混乱してしまうことは、
「したこと(悪いこと)を叱ること」と「子どもの人格を否定」してしまうことだと思います。
例えば、ひじをつくなど、食事のマナーを注意した時に、それだけを叱れば(注意すれば)いいのに
それが何故か「ほんとに行儀が悪い。誰に似たんだろうね。。。」などと言うのは、本題がずれています。
子どものした悪いことを認識させることはもちろん大切ですが、それが発展して、子どもの人格や存在を否定しまうと、子どもの心は傷つきます。
私も経験ありますが、というか、子どもが小さい時は、その反省の繰り返しでした。
子どものしたことだけを、”短くその場で”叱ればいいものを、ふっと思い出した過去のことを持ち出してきたり、子どもの性格を否定するようなことを言ってしまったり。。。
子どもの悲しむ顔を見て初めて反省して。。。
「叱り方」は、本当に難しいと思いました。
<効果的な叱り方 七か条>から 順番にご紹介したいと思います。
①その場で叱ること
時間を置くと、子どもは何を叱られているのか分かりません。
「そういえば、朝こんなことがあったけど、それはね・・・」と、夜に叱っても、子どもも何のことか忘れてしまっているでしょう。
覚えていたとしても、右から左で、叱る効果はないと思います。
私もたまに、思い出して子どもに注意することがありますが、もう高校生になった子どもからは
「何いうとん?それ、いつのこと?」と一言かわされて、終わりです(汗)
何でも「その場」が効果的です。
ということで、また次回に続きます。
2006年10月27日
自分の足でしっかり立つ
「育児・育自」はわかるけれど、「育地」って???
カテゴリーを見て、「何だこれは?」って思われた方も多いと思います。
もちろん造語ですが、意味があります。
そのまま読むと「地面を育てる」
これだけでは、ますます何のことかわかりません。
「地面」って、大地のことです。
自分がしっかり立つ足元です。
「子育てしながら、自分も育ち、そして、自分の足元しっかり固めて、子どもや自分にどんな嵐が来ようと倒れない強い根元を作る」
・・・・そんな意味が込められています。
私はとても弱い木でした。
夫という支木がなければ、一人で立っていられない依存心の強い木でした。
「子育て」も、二人でしている間はあまり不安はありませんでした。
ある日急に支木が外れた瞬間、いろんな嵐がやってきたのです。
私は子どもがある程度の年齢になっていましたが、これがもし、子どもが生まれてすぐだったら、子どもがまだ小さかったら。。。と思うと、どんなに心細く、不安になるか。。。思っただけで胸が痛みます。
「大地にしっかり立つ」ために大切なこと。。。それは「自分を好きになること」
どんな自分も、全て「ありのまま」受け入れることができて、初めて大地の根っこは奥深く伸びていくのだと思います。
「子育て」をしてて、思わず怒ってしまったとき、子どもを悲しませてしまったとき、自分を責めていませんか?
そこからの”学び”は必要ですが、必要以上に自分を責めないでくださいね。
「自分を責める気持ち」は、地面には吸収されず流れていきます。
大地の根っこには「自分を好き」だという”お水”が必要です。
・・・・・最近、ちょっと乾き気味?かな(・・・)
カテゴリーを見て、「何だこれは?」って思われた方も多いと思います。
もちろん造語ですが、意味があります。
そのまま読むと「地面を育てる」
これだけでは、ますます何のことかわかりません。
「地面」って、大地のことです。
自分がしっかり立つ足元です。
「子育てしながら、自分も育ち、そして、自分の足元しっかり固めて、子どもや自分にどんな嵐が来ようと倒れない強い根元を作る」
・・・・そんな意味が込められています。
私はとても弱い木でした。
夫という支木がなければ、一人で立っていられない依存心の強い木でした。
「子育て」も、二人でしている間はあまり不安はありませんでした。
ある日急に支木が外れた瞬間、いろんな嵐がやってきたのです。
私は子どもがある程度の年齢になっていましたが、これがもし、子どもが生まれてすぐだったら、子どもがまだ小さかったら。。。と思うと、どんなに心細く、不安になるか。。。思っただけで胸が痛みます。
「大地にしっかり立つ」ために大切なこと。。。それは「自分を好きになること」
どんな自分も、全て「ありのまま」受け入れることができて、初めて大地の根っこは奥深く伸びていくのだと思います。
「子育て」をしてて、思わず怒ってしまったとき、子どもを悲しませてしまったとき、自分を責めていませんか?
そこからの”学び”は必要ですが、必要以上に自分を責めないでくださいね。
「自分を責める気持ち」は、地面には吸収されず流れていきます。
大地の根っこには「自分を好き」だという”お水”が必要です。
・・・・・最近、ちょっと乾き気味?かな(・・・)
2006年10月26日
本気で子育て その③
「一人で子育て」を始めて、まだ5年ほどですが、この五年間で本当に様々な気付きや出来事がありました。
ただ言えることは、
「自分の心の状態」が、子どもの言動や気持ちに影響する、ということ。
実家にいた時の私はまだ、しっかり一人で立っていませんでした。
何か子どもに問題が起きると、切られるとわかっている電話を夫に掛けていました。
母からは、「可愛そうな子」と、甘やかされていましたが、それがイヤでずっと反抗していました。
そんな頼りない母を、子どもたちは厳しい目でずっと見ていました。
「ママは ほんとに 子どもみたい。」
母としての威厳も、親としての立場も、全くなくなってしまいました。
子どもたちの反抗が、少しだけ落ち着いたのは、やはり私がちゃんと仕事をし、精神的に自立してからです。
子どもの父親とのことも、きっぱり諦め、自分の母ともしっかり距離を取り、どんなことがあっても
「自分ひとりで頑張ってみよう」という決意を持った時、子どもたちへ初めて心が通じたのでしょうね。
親として、「毅然とした態度」を取ることが、子どもにとっての”安心”に繋がるということ、、子どもたちから教えてもらいました。
子どもができてから、おんぶに抱っこだった子育てが、私一人に”バトンタッチ”されてから、「子どもの在り方」はようやく変化してきたのです。
ただ言えることは、
「自分の心の状態」が、子どもの言動や気持ちに影響する、ということ。
実家にいた時の私はまだ、しっかり一人で立っていませんでした。
何か子どもに問題が起きると、切られるとわかっている電話を夫に掛けていました。
母からは、「可愛そうな子」と、甘やかされていましたが、それがイヤでずっと反抗していました。
そんな頼りない母を、子どもたちは厳しい目でずっと見ていました。
「ママは ほんとに 子どもみたい。」
母としての威厳も、親としての立場も、全くなくなってしまいました。
子どもたちの反抗が、少しだけ落ち着いたのは、やはり私がちゃんと仕事をし、精神的に自立してからです。
子どもの父親とのことも、きっぱり諦め、自分の母ともしっかり距離を取り、どんなことがあっても
「自分ひとりで頑張ってみよう」という決意を持った時、子どもたちへ初めて心が通じたのでしょうね。
親として、「毅然とした態度」を取ることが、子どもにとっての”安心”に繋がるということ、、子どもたちから教えてもらいました。
子どもができてから、おんぶに抱っこだった子育てが、私一人に”バトンタッチ”されてから、「子どもの在り方」はようやく変化してきたのです。
2006年10月25日
本気で子育て その②
引越しして、間もなく、有り難いことにご縁でフルタイムの仕事が見つかりました。
嘱託でしたが、毎月定期収入が入るのは助かりました。
子どもたちは、初めての「親子三人」での暮らしに、最初は戸惑いを感じていたようです。
精神的に、不安定な日々が続きました。
下の子どもは、急に全くの鍵っ子になりました。
朝、自分でカギを閉めて学校へ行き、自分でカギを開けて電気のついていない家に入るのです。
中学生活学年半ばで転校したので、クラブも入れず、馴染むのに時間が掛かりました。
そして二学期、学校から呼び出しの電話が度々掛かってくるようになったのです。
「息子さん、学校に来てませんけど。体調悪いのですか?」
「・・・・そうですか。。。何も言ってませんでしたけど。休んでいるのですね。。。」
その日、家に帰ると息子は部屋で寝ていました。
ワケを聞いても、納得できる答えは返ってきませんでした、。
そんな日が何日か続いて、先生も心配して来てくださいました。
「なんで 学校に来れへんのやろなぁ?」
「・・・・・」
「体育祭の練習がイヤなんか?」
「・・・・・はい。」
二学期になり、体育祭の練習の最中に、どうしてもイヤなことがあったようです。
よくよく話を聞いてみると、
「頑張れない」ことが一番”辛い”と。。。
子どもって、「できる・できない」ということよりも、「一生懸命するかしないか」ということで評価が違ってきますね。
下手でも「頑張る子」は、良い子で、とにかく「頑張らない子」は、悪い子だという暗黙の図式ができているように思います。
その時の息子は「頑張れない子」でした。
体育祭の当日。
息子は参加しました。
誰に強制されたでもなく、「自分で」考えて結論を出したのです。
その後もまた、欠席する日が続きましたが、体育祭の次にあった「中間テスト」がまた、立ち直りのキッカケになりました。
そんな感じで、一ヶ月に20日以上は休んだのですが、「自分で」トンネルを抜けたのです。
「待つ」子育ては、根気が必要です。
怒っても、叱っても、泣き叫んでも、頼んでも、結局は子ども自身の「気付き」がなければ、それは親の空回りになってしまうのです。
嘱託でしたが、毎月定期収入が入るのは助かりました。
子どもたちは、初めての「親子三人」での暮らしに、最初は戸惑いを感じていたようです。
精神的に、不安定な日々が続きました。
下の子どもは、急に全くの鍵っ子になりました。
朝、自分でカギを閉めて学校へ行き、自分でカギを開けて電気のついていない家に入るのです。
中学生活学年半ばで転校したので、クラブも入れず、馴染むのに時間が掛かりました。
そして二学期、学校から呼び出しの電話が度々掛かってくるようになったのです。
「息子さん、学校に来てませんけど。体調悪いのですか?」
「・・・・そうですか。。。何も言ってませんでしたけど。休んでいるのですね。。。」
その日、家に帰ると息子は部屋で寝ていました。
ワケを聞いても、納得できる答えは返ってきませんでした、。
そんな日が何日か続いて、先生も心配して来てくださいました。
「なんで 学校に来れへんのやろなぁ?」
「・・・・・」
「体育祭の練習がイヤなんか?」
「・・・・・はい。」
二学期になり、体育祭の練習の最中に、どうしてもイヤなことがあったようです。
よくよく話を聞いてみると、
「頑張れない」ことが一番”辛い”と。。。
子どもって、「できる・できない」ということよりも、「一生懸命するかしないか」ということで評価が違ってきますね。
下手でも「頑張る子」は、良い子で、とにかく「頑張らない子」は、悪い子だという暗黙の図式ができているように思います。
その時の息子は「頑張れない子」でした。
体育祭の当日。
息子は参加しました。
誰に強制されたでもなく、「自分で」考えて結論を出したのです。
その後もまた、欠席する日が続きましたが、体育祭の次にあった「中間テスト」がまた、立ち直りのキッカケになりました。
そんな感じで、一ヶ月に20日以上は休んだのですが、「自分で」トンネルを抜けたのです。
「待つ」子育ては、根気が必要です。
怒っても、叱っても、泣き叫んでも、頼んでも、結局は子ども自身の「気付き」がなければ、それは親の空回りになってしまうのです。
2006年10月24日
本気で子育て その①
「うざい」 「きしょい」 「うせろ」 ・・・その他、放送禁止用語?
当時、子どもから言われていた言葉です。
言われる度に、心が張り裂けそうになるほどに悲しい思いをしました。
子どもの一番大変な時期に、急にいなくなった父親に対して
「なんで 私だけ 子どもからこんなことを言われなあかんの?」と、自分で自分を哀れむ日々でした。
親の姿を見て、一番悲しい想いをしているのは、他でもない、子どもたちだということもわかっていたのに、現実に子どもの心を思いやる余裕もありませんでした。
子どもと一緒に暮らせる喜びと同時に、苦しみもありました。
その時、初めて「一人で子育てをするしんどさ」を実感したのです。
”一人で責任を負わなければいけない 重圧感”
”誰にも相談できない 孤独感”
”先の見えない 不安感”
荒れていく子どもたちの心を見るたびに、「自分一人で」抱え込む重圧に潰されそうになりました。
夜中、どこに行ったのかわからない娘を、担任の先生と探し回って、寝られない夜も何回かありました。
息子とは、本気で身体を張って喧嘩をしました。
倒れてどこかで打った時に、青アザができたことも数回ありました。
ただその時思ったことは
「子どもから逃げない」
ただ、それだけでした。
実家にいた一年間、親も子も、そして祖父母も巻き込んでしまい、みんな心身共に疲れてしまったのです。
上の子どもが進学したのをキッカケに、親子三人、引っ越して「自立」することに決めました。
当時、子どもから言われていた言葉です。
言われる度に、心が張り裂けそうになるほどに悲しい思いをしました。
子どもの一番大変な時期に、急にいなくなった父親に対して
「なんで 私だけ 子どもからこんなことを言われなあかんの?」と、自分で自分を哀れむ日々でした。
親の姿を見て、一番悲しい想いをしているのは、他でもない、子どもたちだということもわかっていたのに、現実に子どもの心を思いやる余裕もありませんでした。
子どもと一緒に暮らせる喜びと同時に、苦しみもありました。
その時、初めて「一人で子育てをするしんどさ」を実感したのです。
”一人で責任を負わなければいけない 重圧感”
”誰にも相談できない 孤独感”
”先の見えない 不安感”
荒れていく子どもたちの心を見るたびに、「自分一人で」抱え込む重圧に潰されそうになりました。
夜中、どこに行ったのかわからない娘を、担任の先生と探し回って、寝られない夜も何回かありました。
息子とは、本気で身体を張って喧嘩をしました。
倒れてどこかで打った時に、青アザができたことも数回ありました。
ただその時思ったことは
「子どもから逃げない」
ただ、それだけでした。
実家にいた一年間、親も子も、そして祖父母も巻き込んでしまい、みんな心身共に疲れてしまったのです。
上の子どもが進学したのをキッカケに、親子三人、引っ越して「自立」することに決めました。
Posted by 山羊 at
23:10
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2006年10月23日
自分との葛藤の日々 その②
「一人で子育て」
子どもができてから、全く考えていなかったことでした。
もう、二人ともある程度の年齢になっていたので、身の回りの世話をするということはありませんでしたが、精神的にとても微妙な年齢だったので、その方が心配でした。
”「自己信頼」を全く無くして、自分を責め続け、泣き続ける母”と
”家族への「無視」と母への言葉の暴力を急に出し始めた父”
こんな状態で、半年以上も逃げ場のない状態にいた子どもたちの心は、目に見えて段々と荒んで(すさんで)いきました。
その頃の私は、自立していない大人の典型でした。
父親から、家庭環境から逃げるように結婚した20代前半。
彼は、理想の男性というより、私の理想とする父親像といった方が正しかったのかもしれません。
一度も父親に甘えたり心から楽しいと思って遊んでもらったことのない私にとって、子どもと遊ぶ彼の姿は、何よりの安らぎだったのだと思います。
そんなインナーチャイルドを抱えた私は、いつのまにか彼の「子ども」になっていました。
彼は、そのことにいつからか、危機感を覚えていたのでしょう。
話し合いで解決する時間も余裕も持てないまま、「爆発して別れる」という最悪のシナリオによって、幕を閉じることになったのです。
子どもたちは、そんな両親の心の葛藤を理解できるでもなく、誰にも相談できず、自分の中で溜め込んでいきました。
親に気を遣って、表面的には普通を装っていましたが、そのけな気な姿に胸が痛む日々でした。
多くの問題を抱えたまま、子どもたちと私は、帰国となりました。
お金も仕事も帰る家もなかった私たちは、実家にお世話になりました。
そして、その日から、子どもたちとの身体をはったバトルの日々が始まったのです。
子どもができてから、全く考えていなかったことでした。
もう、二人ともある程度の年齢になっていたので、身の回りの世話をするということはありませんでしたが、精神的にとても微妙な年齢だったので、その方が心配でした。
”「自己信頼」を全く無くして、自分を責め続け、泣き続ける母”と
”家族への「無視」と母への言葉の暴力を急に出し始めた父”
こんな状態で、半年以上も逃げ場のない状態にいた子どもたちの心は、目に見えて段々と荒んで(すさんで)いきました。
その頃の私は、自立していない大人の典型でした。
父親から、家庭環境から逃げるように結婚した20代前半。
彼は、理想の男性というより、私の理想とする父親像といった方が正しかったのかもしれません。
一度も父親に甘えたり心から楽しいと思って遊んでもらったことのない私にとって、子どもと遊ぶ彼の姿は、何よりの安らぎだったのだと思います。
そんなインナーチャイルドを抱えた私は、いつのまにか彼の「子ども」になっていました。
彼は、そのことにいつからか、危機感を覚えていたのでしょう。
話し合いで解決する時間も余裕も持てないまま、「爆発して別れる」という最悪のシナリオによって、幕を閉じることになったのです。
子どもたちは、そんな両親の心の葛藤を理解できるでもなく、誰にも相談できず、自分の中で溜め込んでいきました。
親に気を遣って、表面的には普通を装っていましたが、そのけな気な姿に胸が痛む日々でした。
多くの問題を抱えたまま、子どもたちと私は、帰国となりました。
お金も仕事も帰る家もなかった私たちは、実家にお世話になりました。
そして、その日から、子どもたちとの身体をはったバトルの日々が始まったのです。
2006年10月22日
自分との葛藤の日々 その①
「あの日」のことを鮮明に記憶しています。
帰国が半年後に迫ったアメリカ生活最後の夏休み。
私は、子どもたち二人を連れて、日本に一時帰国しました。
一週間後。。。
空港まで迎えに来てくれていた彼の様子が、いつもと明らかに違うことを感じました。
その日の夜。
子どもたちが寝ていることを確認し、彼の口から思いがけない一言が。
「別れて欲しい」
一瞬、何が起きているのか理解できませんでした。
遠い所から声が聞こえてきて、言っている意味がわかりませんでした。
・・・「意識は現実化する」
彼から発した言葉は、まさしく私の”潜在意識”の言葉だったのです。
「いつかは 彼と別れよう」
そんなことを漠然と考えていた私だったにも関わらず、彼の口から、しかも、異国の地で”先に”言われたことに平常心を失い、ただただ泣いている自分がいました。
「子どもたちは?」「生活は?」
真っ白になった頭に、真っ先に浮かんだのは「子どもたち」のことでした。
「一日でも早く子どもたちを連れて帰ってくれ」
とはいうものの、実際問題、現地の公立学校も、日本の補習校も、学年の途中で、特に下の子は3月に日本の補習校の卒業を迎えていたので、どんなことがあっても、任期の終わる来年3月までは滞在しないといけません。
8月下旬から帰国した3月下旬までの7ヶ月間は、
生涯の中で、忘れられない悪夢の日々であったと同時に、「生まれ変わった自分」に出会うために必要な”痛みを伴った宝物”の時期でした。
帰国が半年後に迫ったアメリカ生活最後の夏休み。
私は、子どもたち二人を連れて、日本に一時帰国しました。
一週間後。。。
空港まで迎えに来てくれていた彼の様子が、いつもと明らかに違うことを感じました。
その日の夜。
子どもたちが寝ていることを確認し、彼の口から思いがけない一言が。
「別れて欲しい」
一瞬、何が起きているのか理解できませんでした。
遠い所から声が聞こえてきて、言っている意味がわかりませんでした。
・・・「意識は現実化する」
彼から発した言葉は、まさしく私の”潜在意識”の言葉だったのです。
「いつかは 彼と別れよう」
そんなことを漠然と考えていた私だったにも関わらず、彼の口から、しかも、異国の地で”先に”言われたことに平常心を失い、ただただ泣いている自分がいました。
「子どもたちは?」「生活は?」
真っ白になった頭に、真っ先に浮かんだのは「子どもたち」のことでした。
「一日でも早く子どもたちを連れて帰ってくれ」
とはいうものの、実際問題、現地の公立学校も、日本の補習校も、学年の途中で、特に下の子は3月に日本の補習校の卒業を迎えていたので、どんなことがあっても、任期の終わる来年3月までは滞在しないといけません。
8月下旬から帰国した3月下旬までの7ヶ月間は、
生涯の中で、忘れられない悪夢の日々であったと同時に、「生まれ変わった自分」に出会うために必要な”痛みを伴った宝物”の時期でした。
2006年10月21日
そしてアメリカへ
心の整理がつかない間に、アメリカ行きの日がきました。
最初の年は、ホームシックと諦めきれない「あの」大学への想いが交錯し、中々現地の生活に溶け込めない日々が続きました。
元夫は、100%良い父親であり家庭人だったので、私はそんな彼にいつもおんぶに抱っこで、頼ってばかりでした。
心のどこかにいつも「アメリカに来るより、日本で勉強したかった。」という過去を引きずる思いが私の中にあるのを、彼は敏感に感じていたのでしょう。
彼は決して怒りませんでした。
何でも言うことを聞いてくれる彼に対して、段々我儘な女になっていく自分を責めつつも、モヤモヤとした気持ちは払拭できませんでした。
滞米二年目。
やっと「心の拠り所」を見つけました。
それから私は、無意識の内に「現実」から逃げ、そして「夫と向き合う」ことから逃げることによって、生活のバランスを取っていたのだと思います。
そしてその頃は、表面的にはとても「幸せな家庭」だったと思います。
でも「いまを生きて」いなかった私は、いつも掴み所のない虚しさを感じていました。
「子育て」も、アメリカにいることを良いことに、都合の悪いことは全て夫に押し付けていたような気がします。
子どもたちからも、私からも、一方的に「頼られる」ばっかりだった夫は、駐在生活最後の帰国間際についに”爆発”しました。
それからあり地獄のごとく、私の「自己否定」の悪循環の日々が始まったのです。
最初の年は、ホームシックと諦めきれない「あの」大学への想いが交錯し、中々現地の生活に溶け込めない日々が続きました。
元夫は、100%良い父親であり家庭人だったので、私はそんな彼にいつもおんぶに抱っこで、頼ってばかりでした。
心のどこかにいつも「アメリカに来るより、日本で勉強したかった。」という過去を引きずる思いが私の中にあるのを、彼は敏感に感じていたのでしょう。
彼は決して怒りませんでした。
何でも言うことを聞いてくれる彼に対して、段々我儘な女になっていく自分を責めつつも、モヤモヤとした気持ちは払拭できませんでした。
滞米二年目。
やっと「心の拠り所」を見つけました。
それから私は、無意識の内に「現実」から逃げ、そして「夫と向き合う」ことから逃げることによって、生活のバランスを取っていたのだと思います。
そしてその頃は、表面的にはとても「幸せな家庭」だったと思います。
でも「いまを生きて」いなかった私は、いつも掴み所のない虚しさを感じていました。
「子育て」も、アメリカにいることを良いことに、都合の悪いことは全て夫に押し付けていたような気がします。
子どもたちからも、私からも、一方的に「頼られる」ばっかりだった夫は、駐在生活最後の帰国間際についに”爆発”しました。
それからあり地獄のごとく、私の「自己否定」の悪循環の日々が始まったのです。
2006年10月20日
人生の転換期
30代半ば。
元夫の転勤で、カルフォルニアに家族で行くことになりました。
アメリカで仕事をすることは、彼にとって大きな夢の実現でした。
皮肉なことに同じ年の同じ月、私は、18歳の時に落ちた第一希望の大学の「3回生編入試験」に合格しました。
20歳の子たちに混じって受けた試験。10倍以上の倍率でした。
元夫も、家族もみんな言うことは同じでした。
「アメリカ生活に比べたら、大学なんて・・・」
ただ悲しかった。。。
彼にとってアメリカで仕事することが夢ならば、あの大学のあの学部で勉強することは、私にとっても大きな夢でした。
家族帯同が転勤の条件だったので、話し合いの余地はありませんでした。
当時小学生だった子どもたちは、アメリカ行きを喜んでいました。
「同じ年の同じ月」に、お互いの夢が実現したこと・・・全ての始まりだったのかもしれません。
元夫の転勤で、カルフォルニアに家族で行くことになりました。
アメリカで仕事をすることは、彼にとって大きな夢の実現でした。
皮肉なことに同じ年の同じ月、私は、18歳の時に落ちた第一希望の大学の「3回生編入試験」に合格しました。
20歳の子たちに混じって受けた試験。10倍以上の倍率でした。
元夫も、家族もみんな言うことは同じでした。
「アメリカ生活に比べたら、大学なんて・・・」
ただ悲しかった。。。
彼にとってアメリカで仕事することが夢ならば、あの大学のあの学部で勉強することは、私にとっても大きな夢でした。
家族帯同が転勤の条件だったので、話し合いの余地はありませんでした。
当時小学生だった子どもたちは、アメリカ行きを喜んでいました。
「同じ年の同じ月」に、お互いの夢が実現したこと・・・全ての始まりだったのかもしれません。